2026年7月26日 · 文:Kiyo Darner · 約6分
ニューヨークでいちばん田舎者のアジア人
人に言う持ちネタがあります。自分はニューヨークでいちばんレッドネックなアジア人だ、というものです。
冗談なのは言い回しだけです。レッドネックではありません。ヒルビリー、山の人間です。この二つは違いますし、証拠になる子ども時代もあります。
両方の側
母の島田真知子は東京の出身です。父のロバート・ダーナーはミズーリ州セントジェームズ。二人はカリフォルニアで出会いました。だから僕は半分が日本で、半分がスコットランドとドイツで、人生ずっと、見る人によってどちらか一方に読まれてきました。
母の両親は島田桃子と島田清です。祖父は新橋の天ぷら屋「天國」の経営者のひとりで、高島屋の中にも店がありました。
天國の創業は1885年、銀座の屋台からです。当時の天ぷらは立ち食いのファストフードでした。そこは知っていて良かったと思っています。店はいまもあります。
祖父には会えないまま亡くなりました。祖母は僕が七歳くらいのときにカリフォルニアの家に来て一緒に暮らすようになったので、子ども時代の日本側は、山の中のうちの家に、人のかたちで届きました。
実際に育った場所
カリフォルニア州レイク郡。うちの土地は、未舗装の道を五マイル上がったところにありました。
お金はありませんでした。子どもの頃のものはたいてい姉のヒンダのお下がりです。あったのは土地なので、当時の男の子がやることを森でやって育ちました。木に登って、土で砦を作る。
犬が五匹、猫が二匹。猫の一匹は僕が小さいうちに死にました。もう一匹が銀で、酒のジンではなく銀色のほうです。長く生きて、ほとんど三人目のきょうだいでした。
名前について
みんなキヨと呼びますが、清水(きよみず)の略です。
母は自分の父の名前から「清」を取りました。祖父の名前の二文字目は土地を意味する字だったので、清らかな土地に対して、こちらは清らかな水にしようと決めたそうです。それで清水。京都のあの寺と同じ字です。
子どもの頃はまったくありがたく思っていませんでした。いまは思っています。
料理を始めた経緯は、事故のようなものです
料理に興味はありませんでした。まったく。
母は健康志向の人で、うちは父が持ち帰る肉以外、ほぼヴィーガンでした。その母が僕の十代前半に体調を崩し、料理ができないことが増えたので、ヒンダと僕が作るようになりました。
始まりはそこで、動機は「何が何を変えるのか」という好奇心でした。チャーハンをたくさん作って、だんだん怪しいものを入れて結果を見ていました。たとえばくるみ。
いまでも思い出すのはスープです。本で、ローリエはスープに良いと読みました。「乾燥した」という部分を読み飛ばしていたので、外に出て木から生の葉をもいできました。
やったことのない方のために書いておくと、北カリフォルニアに自生している月桂樹は、瓶に入っているおとなしい葉とは別の植物で、桁違いに強い。郡の歴史でいちばんまずいスープを作った可能性があります。
本はそれを教えてくれません。スープを台無しにするしかないのです。
本当の入口
最初の厨房の仕事は牧場の作業員でした。厨房の手伝いも仕事のうちで、内容は全部仕込み、まったく面白くありませんでした。
その翌年、隣の郡のユカイアにあるOco Timeで皿洗いの仕事に就きました。十四か十五で、当時のカリフォルニアで働ける下限でした。
手が速くてよく働いたので、そこのシェフだった藤原レニンさんがそれを見て、目をかけてくれました。包丁の使い方を教えてくれて、暇な時間に仕込みへ引っ張ってくれた。そこから上がって、あの厨房の全ポジションを覚えました。
話はそれだけです。シンクで必死に働いている子どもを見た誰かが、その子に時間を使うと決めた。そのあとに起きたことは全部、これがあったからです。
在籍中にメンドシーノ・カレッジが調理のプログラムを立ち上げることになり、僕はその運営をしていた女性の助手になりました。
日本
十七か十八のとき、母とレニンさんのあいだで計画が立てられました。半分しか知らない側の家族の文化と食を学びに、日本へ送る。
高級そば店の「麓や」でインターンをしました。最初は青山の店、のちに大手町の店で、記憶が正しければ東京駅のすぐ隣でした。
半年の予定でした。
五年近くいました。
ニューヨーク
2008年にアメリカへ戻り、ニューヨークに決めました。あの年に職を見つけるのは大変でした。
最初に決まったのが鳥心の、当時の店舗です。そのあと、ジャン=ジョルジュ・ヴォンゲリヒテンが共同経営していたそば店の松玄から声がかかり、これがいろいろな扉を開けてくれました。厨房に空きがなかったのでフロアに入れられ、接客はそれが初めてで、そこで膨大なことを覚えました。
松玄が閉まると、コロンバスサークルのジャン=ジョルジュに移りました。しばらくそこにいて、きちんとやったときのファインダイニングのサービスがどういうものかを学びました。
そのあとはトライベッカのBrushstroke。デイヴィッド・ブーレイと辻調理師専門学校の店で、ここで初めてマネジメントに触れました。それから数年、動きながら拾えるものを拾って、Aquavitの支配人になりました。ここは純粋に楽しかった。北欧料理は、思われている以上に日本の料理と重なるところがあります。
その次がDaDongで、タイムズスクエア店の立ち上げでサービスディレクターを務めました。
辞めた理由
そこで終わりました。2018年、ファインダイニングから完全に離れました。
書き方を間違えたくないので正確に書きます。あの店のせいでも、あの人たちのせいでも、あの会社のせいでもありません。ファインダイニングという業態と、僕自身と、十年やったあとにその二つが噛み合わなくなっていた、という話です。
少し休んで頭を戻しました。それから聚楽に入り、2020年に共同経営者になりました。そちらはそちらで一本の話です。
つながっている部分
何ひとつ計画していません。土で砦を作っていた子どもから、ラドロー通りのバーまで、線は引かれていませんでした。
ただ、祖父は僕が二十歳近くまで見ることのなかった街で天ぷらを揚げていて、その店は銀座の路上の屋台から始まっていて、そして僕は、人が集まって小さいものを食べて長居する部屋を回しています。
当時はそれをやっているつもりはありませんでした。あとから見ると、かなり分かりやすい話です。
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